日本球界で通算100勝を挙げ、1964年に29勝を挙げて阪神の優勝に貢献。外国人投手初の沢村賞を受賞したジーン・バッキー氏が14日、腹部大動脈瘤手術後の合併症のため米ルイジアナ州で死去した。家族が明らかにした。82歳。
1957年にタイガース傘下のマイナーでプロ生活をスタートさせたがメジャー昇格は出来ず、1962年3Aハワイ・アイランダースでプレーした際に、阪神の入団テストを知り、受験して合格。63年に8勝し頭角を現すと、3年目の64年に急成長。191センチで長いリーチを活かした厳しい内角攻めに加え外角へのナックルボール。また、右打者にはサイドで、左打者には上手投げという器用さも持ち合わせたピッチングで、29勝を挙げ最多勝、防御率1位(1・89)、そして外国人では初の沢村賞を獲得。65年6月28日にはこの年から9連覇をスタートする巨人相手にノーヒットノーラン。これもまた、戦後の外国人初の快挙だった。
68年8月には通算100勝を達成したが、同年9月、優勝争いを演じていた甲子園での巨人戦で王貞治への内角球から大乱闘に発展。荒川博打撃コーチともみ合いになって右手親指を骨折。翌69年には近鉄に移籍したが0勝に終わり、そのまま引退した。
テスト生だったこともあり、遠征先では旅館でナインと雑魚寝。甲子園近くの文化住宅で畳の生活を送って、球場にはバイクで通うなど虎ファンにも親しまれていた右腕。現役引退後は故郷に戻り、高校の工業美術の教師を務めていた。何度も来日して、元ナインらと旧交を暖めていた。
2019-09-15 10:01:00Z
https://hochi.news/articles/20190915-OHT1T50200.html
No comments:
Post a Comment